カッツェにしてもいいですか

お酒を飲んでサブカルチャーに触れたり北方謙三に抱かれたりするブログです。

言いたい事を伝えようとするドリョク

自分の感じる「エマ」、もしくは森薫さんのすごさを伝える努力。

内へ向かうか外へ向かうか。
内面世界を描く。あまた登場する人物がみな作家の投影。しかしその作品は外へ繋がってゆく。庵野監督とかってそういう方向。

森さんは逆。自分の内なる欲求を満たす為に、その作品は限りなく外へ。広がりを持つ。それも箱庭的ではない。
登場人物の背景(生い立ち・生活臭)は特に語られない。しかし、ある日常を切り取っていくたび、その人物に膨大な背景が「ある」ことが伝わる。どんなものが「ある」かはわからない。ただ、「ある」事が伝わる。伝達量も速度も膨大に。

全く端役の貴族の一人から、この物語では特に描かれていない、彼を支えるワーキングクラスの存在を感じる。重厚・重層な階級が見えてくる。大英帝国の歴史・営みが触れてくる。

一人一人が独立して動いている。自分の意思を持って。その世界からあくまで作者はその一部を恣意的に切り取っているだけのように見える。本来はこの作者が発しているにも関わらず。

これは、凄い事だと思う。こういうマンガ家って、他にいるだろうか。大抵のマンガ家の描くキャラって、その作者の子供に思えるのだけれど、「エマ」からはどうにも。彼らはあくまでその世界の両親がいて、家があって、脈たる伝統の流れがあって。そうとしか思えないんだ。


また、ここまで「絵」だけで登場人物の思考・感情の流れが伝わるマンガ家、最近いないだろう。登場人物に語らせすぎる作家が多いように感じる。登場人物の感情ではなく作者の感情であることもしばしばだ。

例えば。「エマ」4巻冒頭。コリン(少年)が絵を描いている。その行為は誰かへ向けたもの。完成し、その誰かへ見せた時の情景を浮かべる。しかしそうではないかもしれない想像の不安。
一言もセリフがない。しかし彼(コリン)がどう感情を動かしていったか。どうその行動へつながっていったかが、誤認している可能性もある事は承知ながら、伝わってくる。そして自分の体験とも思い合わせ、共感する。しかしその共感もあくまで似ていると思う部分だけ抽出してそう感じるだけであって、あくまでコリンだけが感じうるその体感が伝わってくる。

ともかく、非常に稀有な作家だと思う。


で、別の言いたい事を抑えない理力。

エレノアたんかっわいいー!ほっぺ上気すんねん!で、はねるねん!感情とか行動とか!はねとんねん!酒で酔ってろれつ回んなかったりすんねんな!でも、エマさんも大変やねんな!せつないのな!オレが彼女達に出来る事、ないやろか!あぁどうしよう。オレ、彼女たちのために何かできへんやろか。二人に幸せになってほしいねんなああぁぁぁ!!