カッツェにしてもいいですか

お酒を飲んでサブカルチャーに触れたり北方謙三に抱かれたりするブログです。

映画『太陽』感想メモ

『太陽』公式HP
http://www.taiyo-movie.com/
 

自分なりにちゃんと感想を書こうと思うと中々重い腰があがらないので、軽くひっかけたついでに箇条書きで羅列。多分有言不実行な自分のことなので、今後ちゃんとなんて書かない。後でなんか思い出したらここに足す。
 

・自分としては内容、映像ともに大絶賛

・というかイッセー尾形。独壇場

・独特の静かな安寧と静か過ぎて恐怖に駆られる不安とに包まれた映像にイッセー尾形の芸が溶け込んでいるが突如自己主張というか小劇場まんまのことをされるので(笑ってしまって)困る

・時の刻みと空間の移動を詩情で揺るがすので時間と移動の感覚が曖昧模糊というか麻痺してきて酩酊してくる

・口パクパク

・あ、そう

・一番重要な点だが、自分の体験してきた昭和天皇の姿との相違点は少なからずあるはずなのに相似点の方を脳が優先し、やがてこれが昭和天皇そのものであるという錯覚が起きてくる。するとその錯覚のもとに、このそのものであるはずの昭和天皇の体験もそのものであろうという快なる誤認が生じてくる。そして自分の中での歴史の補填・書き換えがスムーズに成されてゆく

・要は、これって夢なんだろうな。高校時代の夢なのに会社の人間がいたりするのを不自然とも思わず認知したり、舞台が飛んでもそれを一切合財許容してゆく(させられてゆく)感覚。そして、自分の中での昭和天皇のあの時はこうだろうなという希望的観測との相似を脳が優先していって現実ではなされていないであろう交わされる会話や行為もどしどし流れ込んでゆくという。そして好意に満たされてゆく

・その辺は多分に二次創作というか同人的感覚に近いんだろうか

・買い専同人者が「なんでオレ(あたし)の中のヒロヒトタンが分かるんですか?」と一方的思い込みを作家さんにまくしたてて困られる感じ?

・オフィシャルブックを読んだのだが、みぎ・ひだり、進歩・保守ともに、おのおのの思想に凝り固まった感想ばかりでげんなり

・そもそも映画ってメインカルチャーなのか?違うよね?一篇の詩であり夢の丁寧な筆記であるのに、現実とここが違う、史実や天皇制を理解してないなどと言い出すことの方がナンセンス

・この映画に対峙する姿勢としては、「自分と昭和天皇」という自分語りが最もふさわしいものと思える。これが唯一の正解であるとは断言しないが、天皇制の是非や昭和天皇の戦争責任の有無をこの映画に対して求めるのは不正解であるとは言えると思う

・という意味で、オフィシャルブックで一番好感が持てたのは吉田アミさんの原稿であり、大月隆寛さんの原稿がその次辺りにランクイン。あ、もちろんいわずもがなだがソクーロフさんのインタビューが白眉

・オフィシャルブックでは「似すぎること自体が不敬」「口パク度が異常」のような意見がだされていたが、この辺りはもちろんイッセー尾形氏のさじ加減が大いに含まれているのだろうが、自分の印象としては、声優さんの演技に通ずるというか、実際のところそんなテンションは不自然だろってくらい強調することが必要な場面があるってことじゃないかしら

・強調すべき部分を喜劇的なまでに過剰に強調したからこそこの映画が成り立っているのでは?

・夢ではないか?と述べたが、実際観ている最中ずうっとこの映像空間に恍惚としていて、終わった瞬間「え、もう終わり?」と思った。それぐらい半眼の覚醒状態を保っていた。2時間があっという間

・パンフレットはシナリオ採録が載っているので絶対買いです


映画そのものの感想とは別の話。4席ほど右の辺りに老夫婦がきていた。劇中、昭和天皇が研究所でひたすらヘイケガニについてひたすら語っている間、速記をしている人が寝てしまうのだが、大東亜戦争の原因を語ろうとする際突如大きな音で手を叩いて「はい起きなさい!」とやるのだが、どうもその老夫婦の奥さんの方が本気で寝ていたらしく、自分に言われたかのように物凄い勢いでビクンとして起きていたというか起こされたというか、その様が大変面白かった。

 
9/13追記
SNSで書いていたのだが、8月の『太陽』連日盛況の報を見て思ったのは、富田メモ騒ぎはこの映画のプロパガンダだったのではという陰謀論

・会社の23歳の若者は昭和天皇を映像ですら見たことないと言っていて、そりゃそうだわなあ、と思った