カッツェにしてもいいですか

お酒を飲んでサブカルチャーに触れたり北方謙三に抱かれたりするブログです。

僕たちの好きな、本当に大好きなおねがいマイメロディ問題

僕がアニメへの興味をほぼ失っていた時期に、何故おねがいマイメロディにハマったかというと、勝手に偽者の偽者による偽者のためのサイケ臭とドラッグ臭を嗅ぎ取ったからであり、そういったスメルというものは、少なくとも中盤まで香が残っていたわけでアリマス。
しかしながら、自分が勝手に嗅ぎ取っていたそういう香というものは、回を追う毎に薄れゆくものであったワケデス。

今2,30秒ほど考えてデッチあげた基準ですけども、きっとサブカルというのは現象を自分一人で物語化し、オタは物語を他人を巻き込んで現象化してゆくのだとふと思ったのですけど、あれ、今なんかいいこと言ってないか?そうでもない?もうそういうのってあんの?庵野?安野?そっか。

で、不肖ワタクシめはこの作品に対して、あるはずもない、製作者が願ってもいやしないそういう現象の腐臭を勝手に嗅ぎ取って物語化していたわけであり、しかしながらそういううがった陰謀論というものはこの2月12日、司馬遼太郎氏没後10年というこの日に粉微塵に砕かれたワケデアリマス。

4クールほどを費やし、次シリーズへの続投も決定したこの作品は、この日、物語としての成熟度を、いやというほど見せてくれたわけです。つじつまを合わせてきたあのキャラこのキャラがどうして存在していたかということを見せつけてくれたわけです。

こうなってはボクの陰謀も成り立ちません。なにしろ、マイメロのあの無限の空洞を感じる黒目から涙が出たのです。いや、それでもどこかしら、空洞からカルキ臭い水道水を流しているようには思えたのですけど、ともかくワタクシが思うマイメロというものは、正直そもそも動画化することもはばかれれるくらい漠たる存在であり、そうすると偶像化することもはばかるわけで、いわばこのアニメを成立させるためには、毎回マイメロのところだけ漠たる光がそこに在る、というだけの臨在感描写をするべきものであり、ってのはどうでもいいとして、なんとなくマイメロ自身がいい具合に枚数多めに動画で生き生きと動いていると不安になる自分があるという事実があるわけです。

しかしながら、今回の話を拝見して、ワタクシ不覚にも涙したわけでアリマス。それは、どういったことかはわかりません。今回の話単体の完成度が高かったということかもしれません。しかし、自分が自分を納得させる考えとしては、現象(特に主立って起きてはいないが)しかなかったこの作品が、遂に自律的に物語を得たのだと。そういう。うん、以前よりもオタが愛せる、そういう、オタからの偏見も薄れて接しやすくなった転機なのだと思ったのです。前述した、オタとサブカルのさっき考えたオレ定義では。

で、今回の話で涙ぐんでしまったオレというのは、今まで勝手に思い込んでいた路線を裏切られたとか思ったわけでもなく、あぁこちらへいくのね、と淡々とシフトしてゆくのでした。諾と。


とどのつまり、オレも歌ちゃんのあの髪の毛クイクイしたいです。駆ヲ妬ニテコロス(緑川光声で)