カッツェにしてもいいですか

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僕たちの好きな「お見やーん」問題

久方ぶりに読んでますよ。

竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)

竜馬がゆく〈1〉 (文春文庫)


歴史物っていやあ大陸に戦国だろ、幕末は地味で興味ないわあ、なんて思っていた10代後半に初めて読んだ幕末物。
もちろん坂本竜馬(実際は「龍馬」が正しいらしい。史実ではなく小説であるということを強調するために司馬先生が「竜馬」としたらしい)を中心に物語りは進んでゆくのだが、話は長州の暴発薩摩の躍動へとどんどん余談に次ぐ余談に飛んでゆくので最初はとまどったのだが、それによって実は幕末をほぼ把握できてしまうのだな。入門篇に最適よな。

今、わりかし幕末の知識も蓄積できた状態で読み返すと、意外にもかなりスラスラと読める。遅読のオレがこの一週間でもう五巻まで達した。

改めて思うのは、この小説の絶対的な影響力。坂本龍馬という人物を扱ったほとんどの作品は、史実ではなく『竜馬がゆく』から意識的にも無意識的にも支配されている。この作品が出た事によって歴史の書き換えがなされたと言っても過言ではない(司馬調)。

坂本龍馬を主に扱うサイトなどを巡ればこの小説の史実との相違などを比較したものも見られるのだが、この小説だけに書かれる描写がいかに他の作品にも出るか。三国志における吉川三国志みたいなもんだべか。

昔、マンガ『おーい!竜馬』の原作者である武田鉄也氏が念願叶って司馬さんと対談したとき、いかに竜馬が素晴らしいかを熱心に司馬さんに話していたら司馬さんから「小説は小説です」と、かなりきつく言われて落ち込んだなんて話もあったりな。史上の龍馬と小説上の竜馬がごっちゃになってたんですな。それだけ魅力的ということもある。

余談だが、今原作者といったが、『THE MAKING OF おーい!竜馬』という本を読むと、武田と小山ゆうの関係性が分かって愉しい。どうやら、

・武田と小山がミーティングで会う
・武田が竜馬への思い入れをずうっと語る
・小山、うんうんと頷きながらもそのほとんどを盛り込まずに自分の演出で描き上げる

ってな感じで。なにしろ、武田の語ったことをいかに小山が変えてそれが良かったという話ばかりです。最終回の武田案なぞ、竜馬が斃れてから、延々詳細な竜馬の偉業を年表で記していくという、宗教めいたものだった。むほほ


閑話休題。

今読んでいる五巻。最初に読んだ当時から気になってしょうがなかっ
た場面がある。
それは、池田屋事件の描写における望月亀弥太のかけごえである。
彼は刀争において、「お見やーん」という謎のかけごえを発するのである。しかも四回も。
その四回も、3回目からは表記が「お見やーン」となり、さながら小池一夫の態をなしてゆくのである。小池の「ン」ぶりについてはこちらを見ていただきたい。

Wikipedia小池一夫トリビア

で、このかけごえを検索してもね、司馬作品の言及以外にはない。全くない。どう発音するのか気になって気になってしかたがないのだがともかくない。最初に読んだ頃も自分で発音してみて笑ってしまうような語感ですよ。今読んでも、壮絶な場面なのに笑ってまう。

たれか知らぬものか。知ってるよというような虎眼流派の方がいらっしゃったら教えていただきたい。そして種種うめきながらオレを責めて攻めていただきたい。