カッツェにしてもいいですか

お酒を飲んでサブカルチャーに触れたり北方謙三に抱かれたりするブログです。

るろうに謙信

はてなダイアリーを書き始める際、特になんも書くことない時でも「*」を打つとビシィッと気合が入ってなんかしらでっちあげてゆくのはオレだけですか。

ところで遅読なオレですけど、信濃戦雲録第二部 覇者(上) (祥伝社文庫)はオレにしては驚異的な速度で進んでいますよ。前作信濃戦雲録第一部 野望(上) (祥伝社文庫)の際には前知識が薄かったので足踏みが多かったのだけど、なにせ信長さん全盛期なのでオレ躓かない。
前作では教師としての山本勘助・生徒である武田“亀治郎”晴信さんの師弟関係プライベートレッスンという形が主を成していたのだけど、今回から世界のMKこと高坂弾正忠昌信さんが教師に昇格。しかしながら主役自体は武田さんから信長陣営に移っており、いやその辺は曖昧なんだけど、プライベートレッスンが主軸でなくなり外交の舞台でその類の会話が成され、さながら周旋世回り先生の移動教室に。
この会話形式がこの作品の実に面白いところで、常に「なぜそうするのか」を問いかけ、そのヒントを提示し数段階経てからやっと答えを出してくれるわけですね。
読者としては、この何段階目でそれに気付くことが出来るかを楽しめるというか、気付いた時にはなにやら自分が策士であるかのような錯覚を覚えられるわけです。且つ溺れる。いわば溺死。
この会話を行っている場面というのは、とどのつまりクエスチョン側が井沢元彦さんそのものであり、アンサー側が読者ってことが明確なので、それが小説としてどうなのかというのは分からんのだけど、これはこれで成功しているのだから良い。自分がいかに回答を先に知ることで理解した気になっているかが良く分かる。

まあその辺の妙味は例を引用してお伝えしてみよう。

信濃善光寺の真海「信長包囲網に加わるなんて危ないんじゃないの?」

本願寺第十一世門主顕如「なんで?危なくないよ」

真海「だって仏法なの?」

顕如「もちろん仏法だよ」

真海「なんで?だって勝手に仏敵認定して仏罰加えようとするなんて、霊感商法なんでしょ?」

顕如「違うよ。全然違うよ。」

真海「でも、組織立てて『講』と称してるんでしょ?」

顕如「全然違うよ。まったく関係ないよ。」

真海「怪しい宗教団体なんじゃないの?」

顕如「全く違うよ。信仰の自由はあると思うよ。でもこれは宗教じゃないよ。『南無阿弥陀仏』と唱えればみんな浄土へ往生できるってだけだよ。」

あーってこれ違うわ。全然違う。もっとちゃんとしてますよ。全然違うとかは言わない。

しかしながらこの師弟関係Q&A手法が今回ちょっと空ぶっている部分もあり、まあ多分オレ限定なのだろうけど、それは信長さんと以前から武田氏を仇敵とする望月誠乃助の問答なんだけど、この両者の関係では信長さんが教師役に回るので、どうしても信長さんが饒舌にならざるを得ないのだけど、信長さんといえば脳内で膨大に高速処理したあげくその結果だけ刺すように発言し、それを理解できない家臣にイラッとくる感じ、あとは「デアルカ」しか言わんという司馬史観に縛られる固定概念がオレに根付いており、これによって映像作品でやたらしゃべる信長も受け付けないし小説でも饒舌な信長を拒否るオレとしてはこんな懇切丁寧な家庭教師トライな信長さん違うわ、全然違う、と困ってしまうのだけど、その辺はオレが悪いので「デアルカ」と納得していきたい。是非もなし。

あと、謙信さんが登場するだけでメンタル的に勃起する新たな自分の一面に気付きました。海音寺さんに毒されたり太陽ニ殺サレタ。風林火山にGacktさんが出た日にゃあ右手が男根になりかねない。