センチメンタルグラフィティ
死にてえなあ。こう、ふっと、な?最近富に、都心を疾走しやがるオレンジやら黄色めいた電車がキラめいてしょうがない(誰もが新人研修で必要不可欠なマナーと教わるべき社会人としての心得)
人生の隙間に、ふっと自分の年齢、いやその生きた年代に影をもたらそうとしてしまうのだよな。バブル絶頂期に学生、特に大学のようにバイトやら合コンだののない高校生だと、あの時代に何のうまみも得ずに、乾いた虚しさだけ残るのだよな。せいぜいフロムAが週二回出てたってくらい。音楽もなんだよ。コメコメウォーとか言ってたよ、あんなんメタルテープでダビングしてな。
自分が自分に対して一番活気に満ちていたと思える時はいつだったろうと思うと、20代中盤から後半にかけてなのだけど、当時はその活気をどう行使すればいいか全然わからんかったのだよなあ。大抵、手段を行使しようとする活気に満ち溢れるのだけど、いかんせん目的がないからせいぜい内省的黄色い暴動に終わってしまうんだ。何かを表現したくてしょうがなかったのだけど、かといって人の前に出るなんてまっぴらごめん、いやはすっぱなニュアンスでなく、恐いからっていう、草食堂物だったのだね。今でもそうだけども。
20代でテキストサイトに触れたりその最前線にいたり、ブログでああでもないこうでもないとシーンにその都度名を付けて語ったりするのを見るたび、1997年に網に絡みつく、その瞬間の年齢ってものは重要だと思うし、その絡みつく瞬間に気付けるかどうかもあるだろうし、いくら遅れようが絡み付いてゆけるおくさない若さってものがうらやましいし、強い印象植え付けたいし、バカンスしなくちゃいけないし、運勢上げなきゃいけないし、気合入れなきゃいけないし、かわいいっぷり見せなきゃいけないしで、ほんと女の子、とりわけ小西真奈美は忙しいよな。
いつも自分は自分の好きなものにリアルタイムに接したかった欲に駆られるのだけど、でもそれは
「ビートル達が武道館に降り立つ瞬間、ドリフの演奏を見たかった」
「YMOを、小学校の運動会でなく親の目を盗んでたばこなんて吸いながら『全くTOKIOは病んでるぜ』なんていいながらピコりたかった」
「P-MODELが法政大学学館であんなことやっちゃってたあの時にいたかった、いあわせたかった」
「エヴァンゲリオンを14歳でみたかった」
「坂本真綾さんは永遠の女子高生声優」
ってことで、いや最後のはノイズなんだけども、特に自分でも熱望してるでもない、ないものねだりであって、別にテキストサイト全盛期にオレが暇をもてあそぶ契約社員で、その手段に気づいていても、結局暇をもてあそんでいただろうし、仮に今20代であっても別に今の自分よりネット上でなにかできてるわけでもないだろうし…でも、ネットって、感受性高い時期の人のものだよなあ、だからそういう時期にネットに触れることができてそれを活かすことのできる才能を持つ人は、是非存分にふるっちゃって欲しいよなあ、となんだか思ったのでした。